ピーターパン・シンドローム

明後日の大阪が、私の2012年現場始めです。
今年初めて、JUMPを観る機会。
明後日を迎えるにあたって、今の心境を書いておこうと思います。


小学生の頃は、早く中学生になりたくて仕方ありませんでした。私が通っていた中学校は、夏服がねずみ色のセーラー服という衝撃のダサさだったのですが、合服は紺のワンピース型で二の腕のところが若干ふわっとなるのが可愛くて、道で中学生とすれ違うたびに、いいなぁ、早く中学生になりたいなぁ、と思っていました。
中学生の頃は、早く高校生になりたくて仕方ありませんでした。私が通っていた高校は、一応県立ではいちばんの進学校で、でも野球とバスケが強くて、体育祭もガチで、文武両道なところが凄くかっこいい!と思っていました。また、すれ違う高校生はみんなスカートが短くて、髪型もおしゃれで、中学生みたいに学校指定のダサいバッグじゃなくて、オシャレなリュックやEAST BOYのスクールバックを持ってるのも憧れでした。
でも、高校2年生の頃でしょうか。ふと、今この瞬間がいちばん楽しい!と思った瞬間があって、大学生になりたくないし、社会人になんてもっとなりたくないし、もうずっとこの高校で、今いる友だちと永遠に過ごしたい、と思うようになりました。その感情は、卒業してもずっとどこか私の心にくすぶっていて、当時聴いていた音楽とか、本とか読むともう駄目で、ああ、人間がいちばんきらきらしているのって、もしかしたら高校生時代なんじゃないのかな、と気付きました。私はあの時あの場所で、永遠になりたかった。


JUMPの新曲「SUPER DELICATE」、何やら裕翔くんとやまちゃんが凄いらしいという噂を聞きました。二人が出演するドラマの主題歌なので、二人がフューチャーされるのは当然なのですが、曲中だけじゃなくて、MCとか、外周回ってる時とか、Twitterで今回のコンレポを読む度に、「この仲の良さ…こいつら本当にゆとやまなのか…??」と疑うことを止めれません。ゆとやまって、なんかもっとこうお互いに遠慮しあってて、根本が違うから分かり合えなくて、でもお互いの根本を揺るがすことはプライドが許さなくて、冬の真夜中のようにピンと張り詰めた、センシティブな関係ではなかったのかしら???

松浦理英子という方の『葬儀の日』という作品に、こんな箇所があります。

川の右岸と左岸は水によって隔てられている。同時に水を共有し水を媒体として繋がっている。あるいは水によって統合されている。(略)
「二つの岸はお互いを欲しているのか。」
だって両岸がないと川にならないじゃありませんか。そして、そのことから、ある問題が生じます。二つの岸がついに手を取り合った時、川は潰れてしまってもはや川ではない。岸はもう岸ではない。二つの岸であった物は自分がいったい何者なのか分からなくなってしまう。それで苛々するんです。進むべきか渋滞し続けるべきか。いずれにせよ甲斐のないことなのではないか、とも。

私はこれを読んで、裕翔くんとやまちゃんはそれぞれ岸なのだなと思いました。そして川は他のJUMPメンバーであり、そして何より知念くんであると。二人が並んで立っているから川は成り立っている。だから一生、手を取り合うことはないのだと。

でも今、裕翔くんとやまちゃんは、そんな私の憶測もむなしくあっさり手と手を取り合ってしまいました。裕翔くんとやまちゃんだけじゃありません。「気まずいコンビ」として名を馳せていた伊野尾くんと高木くんも、ずいぶん自然に、仲良くなったような気がします。そしてその最大の理由は、メンバー全員が大人になって丸くなったから、なのでしょう。子どもだ子どもだと思われていたJUMPですが、自分たちなりに、自分たちのやり方で大きくなり、外の世界へ飛び出し、妥協を覚え、許し合い、マイルドになりました。JUMPの世界も、メンバーひとりひとりの世界も、この数ヶ月でぐーっと広がったんじゃないかなぁ。ぐーっと、成長しました。


前に、お友達とご飯を食べながら「JUMPにSFが似合うのは何でだろう?」という話をした時、「JUMPは今まで、CDをあまり出せなくて、故にテレビにもあんまり出れなくて、その分コンサートを箱庭のように、月基地のように内に内に作りこんできたからではないだろうか」と言われて、確かに、と深く納得したことを覚えています。
JUMPのことを考えるときにいつも思い出す少女漫画があって、萩尾望都の『11人いる!』と日渡早紀の『ぼくの地球を守って』なのですが、どちらも、主人公たちが様々なところから宇宙の狭い一角に集められ、そのなかで友情や愛情を育んでいく物語で、なるほどコンサート会場を宇宙の狭い一角と考えると、このふたつの作品を思い出すのも当然なのかも知れません。


でも今、JUMPはどんどん成長している途中です。
グループ名の入った看板番組が出来(なんかまた今存在が怪しくなってますが…)、CDをコンスタントに出せるようになり、ダンスを揃えることでそれまでJUMPに興味のなかった層を取り込むこともできました。JUMPはどんどん大きくなります。自分たちで作った、居心地のいい小さな箱庭をぶち破って、芸能界という大きな宇宙でひときわ大きく輝く星になります。私はそれが、少し、さびしい。


今回のコンサート、本当は行くのやめようかと思っていました。
森本くんがいないから、というのもあるけれど、成長して、立派になったJUMPを見るのが怖いからというのがいちばんの理由です。前にも書いたように私は少年たちのイノセンスが大好きな変態なので、大人になったJUMPが自分たちの存在を拡大する代わりに、イノセントを失っていたらどうしようと思うと怖くて怖くて仕方がなかったのです。


なんか、自分でもよく分からないキモチワルイ悩みだなぁと思います。でも、いたって大真面目です。JUMPが大きくなるのは嬉しい。アジアツアーも、新曲も、ドラマも嬉しい。でも、私が大好きだったJUMPは、だんだんいなくなる。「喜び悲しみ受け入れて生きる」と、何かを決意したような眼で、世界には自分しかいない、というような真剣な眼で歌っていた、当時14歳、15歳の少年たちはいなくなる。代わりに、今JUMPを形成しているのは、隣人を思いやることのできる、世界のなかで自分なんてちっぽけな存在だと悟っている、瞳に優しいぬくもりを湛えた青年たちです。


JUMPのことは大好きです。今も昔も変わらず、大好きです。新曲のパフォーマンスも早く見たいです。アジアツアーも行きたい!って強く思ってます。生きている以上、成長して年をとっていくのは当たり前なんですけど、こんなに早くその瞬間が来るとは思わなくて、まだちょっと気持ちが追いついてないだけなんです。その気持ちを、土曜日に大阪城ホールで、整理できればいいなと思います。